今の時代に書道で書きたい、いい言葉とは、どんなものがあるでしょうか。書道で、言葉に向き合うとは、自分の考え方や生き方に向き合うことにもつながります。
人の心に響く良い言葉、時代を映す言葉や、自分を駆り立ててくれるような良い言葉を紹介します。
四字熟語は書道でも生き方でも「決め」になるかっこいい言葉が多い
小中学校の授業で、漢字練習帳とかで四字熟語を無理くり覚えて、大人になってから色々な経験を積んでから「どこか心に響くな」という経験をした方は多いと思います。
日本の教育の中で、子どもは四字熟語を自然に学習していくのですが、よくよく考えると、これは特殊なことでもあるんです。
英語の単語1つでは、四字熟語が持っている意味の奥深さを表すのが困難で「これはこういうことなんです」と説明が必要なこともあります。英語圏との文化の違いが、言葉の面で明確に現れている、この例の1つが四字熟語である、とも言えるかもしれません。
一樹:日本人が、生活の中でふとした局面を言い表した「慣用句」としての四字熟語は、親しみがあります。そして、よくよく考えてみると人それぞれで、意味の捉え方が違うことがあります。
同じ言葉なのに「人の解釈」が入りやすいんです。
自分や人の考え方によって、すごく多くの意味を含んでいて、移ろいやすさがあるのに、4語で決められた「カッチリ」した感じがあります。四季を表す「季節」と言うのと「春夏秋冬」と言うのでは、与える印象が全く違うように感じます。
「季節」は1年のうちの四季の分かれ目のことをハッキリ言い表した単語ですが、「春夏秋冬」と聞くと、四季のうちにある時間の流れや、生きることの儚さ、物語の雰囲気さえ感じます。
四字熟語1つで、人の想像力を掻き立てるような、情景・シーンが目の前に浮かんだり、自分の気持ちを象徴してくれることがあります。
日本人が生活の中で、四字熟語が自然に定着しているのは、移ろいやすい心と、漢字の象徴性が、うまく表れているのかなと思います。
愛情や友情を表現する、いい四字熟語の言葉
四字熟語は、日本人らしい捉えどころない「情」を表してくれます。人生の折々で、人と人との間に、瞬間的に現れるエモーションを表した四語は、パッと火花のように出現した感情や情景を的確に表現しています。
日常会話では、さほど意識することはありませんが、よくよく眺めてみると、よく作られているなと思わされます。
別れの苦しみ説く、いい言葉「愛別離苦」
「愛別離苦」は愛する肉親や友人が、いつかは自分から去ってしまうという別れの苦しみを説く言葉です。
書道で書くと、かなり奥深い四字熟語なので、この字を書くと、こう「この人は、なにか哲学的な悩みを抱えているのでは?」と周りから思われてしまうかもしれません (笑)
一樹:この言葉は仏教の中で、人の逃れられない苦しみである「四苦八苦」のうちの1つで、人が昔から根源的に感じている苦しみを表現していると聞いた事があります。
僕の書画の作品は、どちらかというと苦しみから生まれた人生のポジティブな側面を切り取ったものが多いので、この四字熟語は苦しんでいる最中という感じですね。
「出会い」の大切さ、ということについても作品や講演会などで、体験談をもとに語っているのですが、大切な人との別れを体験することで自身の本当に大切にすべきものが見えてくるように感じます。
「意気投合」は人の共感し、距離が縮まるいい言葉
「意気投合」は初めてあった人と、シンパシーを感じて、一気に距離感が縮まり、仲良くなることです。
「意」は、「意見」などという言葉がある通り、自分の思いや、相手の考えを表しています。「気」は「気功」や「気合」という言葉がある通り、自分や相手の見えない心の動きを表しています。
一樹:僕は、ふだんの作品制作から言葉と向き合うことが多いので、一語一語が「人の心に与えるはたらき」や「感情のうごき」のようなものを意識せざるを得ないのですが、この意気投合なんていう言葉を見ただけで、こう「例え互いが離れていても、心の奥深い、根っこのような場所で繋がっている。」そんな情景が自然と浮かびますよね。
「共感」という言葉と、この意気投合という四字熟語の「意味」だけを考えるとイコールなのですが、受け取るイメージが、ぜんぜん違うわけです。
漢字というものが中国から日本にわたり、ぼくらは脈々と使い続けているわけですが、四字熟語は「感情や情景を伝える」という役割を、正確に、でもスゴく広がりを持たせた形で、担ってくれているのだなということがわかりますよね。
行動に関する四字熟語
ひとくちに四字熟語といっても、本当にたくさんの表現があります。
日本と違って中国語圏では、四字熟語という表現は用いられなくて「成語」と呼ばれることが多く、この成語は、いまも新しい言葉が生まれ続けていて、アジア圏では、非常に利便性の高い言葉と言えます。
現実に起こっている事象や、なんとも言えない感情を言い表そうとした人の営みの積み重ねが4語の漢字に定着してきたのだ、ということがわかります。
「画竜点睛」は、書画・書道で「ここが大事」という言葉
6世紀にあった梁という王朝に、張僧繇(ちょうそうよう)という、たいへん腕の良い画家がいました。この画家が描いた「目玉のない竜」の絵に、瞳を描いたことで、竜が天空へ飛び立ってしまったという故事にもとづいた「画竜点睛」。
これは物語や解説文の中で、素晴らしい一言を挿入して、全体のポイントを明らかにすることを指した四字熟語です。
一樹:ぼくの書画作品でも、竜が登場しますが「瞳」の持っている力って、ほんとうに強いです。「目力」って表現があるくらい、瞳は、生き物の感情だったり、伝えたいメッセージを映し出します。
それは人間も同じで、その人の生き様や人間性は、「表情」や「眼」から伝わってきますね。
「目は口ほどに物を言う」とも言いますし、目玉を描くことが、その人全体、ストーリー全体の要旨を示している、ということを言い表したこの言葉は、含蓄が深いと言えます。
1000年以上も前の話に基づいているということも、やはり人の生き方、物事のあり方に、多くの示唆をふくんでいることが理由なのだろうと思います。
「初志貫徹」は、書道で書くのに最適な、いい言葉
四字熟語でも成語でも、書に向いている言葉と、そうでない語があるように思います。この「初志貫徹」なんかは、向いていますね。文字通り、初めに決めた志を貫くという意味ですが、書道は「道」という文字が入っているほど、個人のこころざしや、姿勢を移す分野でもあります。
自分の道を突き進んで、目標をつらぬいていく潔さがある語ですね。
一樹:僕自身は、書画作品を作り続けていて、書道の「道」という言葉を考えさせられることがあります。
能力が高くて、要領の良い人は、自分の道をまっすぐ進んで、目標を貫いていくことができますが、世の中すべて、そういう人たちばかりではありません。
この初志貫徹は、あくまで志を貫いて徹すれば良いわけですから、もし「東大合格」を目指して浪人してしまい、合格するために5年かかってしまったとしても「合格」出来ていれば良いわけです (笑)
ストイックな印象がある四字熟語も、実は広がりや含みを持っているから、ここに1人1人の「志」に対する、現実的な向かい方、生き方、解釈の面白さが出てきますね。
4語のカッチリした印象で、堅苦しさもあるのですが、やはり日本的な柔和さ、現実をふくんだ、プラスの意味での「曖昧さ」あるのが、四字熟語の魅力なのだと思います。
一言の大切さを認識させられる、いい言葉「一言之信」
「一言之信( いちげんのしん) 」は、一言でも発したことばを、必ず守るという四字熟語です。日常生活で、あまり使われることのない語ですが、個人の考え方や「言葉そのものの重み」を考えさせられます。
いまはスマートフォンを使って、SNSやWEB上で、だれでも気軽に情報発信できる環境があります。このような環境が当たり前になってしまっている世相がある中で、とくに若い世代は「自分の言葉に責任を持つ」というリアリティが持ちづらいのではないかと思います。
一樹:自分はギリギリでデジタルネイティブ世代に入るのですが、今の若い人たちのネット上で発言する感覚とは、すこし違いがあると思います。
20代のころは、船で世界一周旅行をしたり、自分の足で、手で「体験で世界を知る」「経験から言葉を得る」という点に、現実的な重みがあった気がします。
また書画作品の制作で、くり返し、作品の言葉と向き合っていると、「作品の言葉と生きた経験の結びつき」を感じます。
インターネット上で炎上が起こったりする背景には、情報発信のモラルや、個人の栄誉の問題など、多くのファクターがあるわけです。
しかしもう一方には、言葉と行動のあり方、「じぶんの発した言葉が、どのように他者に受け取られるか」という現実感や「言葉の射程感」のようなものに、決定的な乖離がある、という問題を無視できないのではないか、とも感じます。
書道の歴史に残る楷書はやっぱり美しくて、かっこいい!
四字熟語の由来や意味、そして「生き方」との関わり合いを見ていくと、漢字が持っている表現力、奥深さがよくわかります。書の世界には、熟語の意味を、ふかく訴えかけることと、漢字そのものの「美しさ」をあらわす役割があります。
楷書の古典と呼ばれる「九成宮醴泉銘」
九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)と読みますが、現在でも残っている、唐の時代の石碑で、むかしから多くの人たちが書のお手本としてきた、楷書の古典です。
「臨書(りんしょ)」といいますが、何度も反復練習することで、自分の楷書を上達させていきます。これを書いた欧陽詢(おうようじゅん)は、とても優秀な官僚です。石碑に刻まれた楷書は、1文字1文字、漢字の「点」や「線」が絶妙なバランスで組まれています。
こういう文化のもとに、私たちが普段使っている、漢字の表現が成立している背景をみると、日本人は「言葉そのものの美しさ」をとても大切にしてきたのだなと感じます。
向勢(こうせい)で表現された孔子廟堂碑
もう1つ、孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)という古典の作品もあり、こちらは虞世南(ぐせいなん)という欧陽詢と共に活躍した四大家のうちの1人です。
こちらは向勢という、漢字の互いに「向かい合う線が膨らんでいる」という特徴があって、文字がやわらかい印象を与えてくれます。これに対して、九成宮醴泉銘は「背勢(はいせい)」という書き方で、キュッとウェストが引き締まったような、緊張感があります。
「書き文字」としての漢字の表現は、本当に深い領域で、一点・一線の置き方1つで、与えるイメージの違いを追求していくんです。
よく日常会話で、相手の言動にたいして「ひどい事を言われて傷ついた」なんて言い表すことがありますが、漢字表現や言葉のうつくしさを尊重する文化の元に、私たちは生きているから、粗野な表現、つまり「美しくない表現」が起こると、このように「相手の言葉の領域を汚してしまう」ことで傷つけてしまう、と言い表される状態が起こるのではないか、なんて思ったりします。
書画の作品の中から生まれたいい言葉
一樹:作品制作をしていると、日頃つかっている一語一語の意味や、相手に与える印象に敏感になることがあります。
「言葉は人」と言ったりしますが、言葉で人を生かすこともあるし、人を傷つけることもあります。自分が作品として生み出した語の背後には、人との関わり合いで紡がれた自分自身の生き方が映っています。
最後に、僕の作品が生まれたキッカケについて、いくつか解説したいと思います。
「出逢いはいのちを輝かす」
一樹:この作品は、「心の書画家』として一歩踏み出した時、初めて心の深いところから、湧き上がるようにインスピレーションを受けて描いた言葉です。
人間関係で悩むことや、辛いこともあるけれど、やはり幸せや良いご縁、お金を自分の元へ運んでくださるのは「人」なんですよね。
人との関わり合いなくしては、自分の命の輝きや、人生の豊かさには繋がっていかないのではないか・・・活動を始めてから今日まで、常日頃からその事を意識しながら活動しています。
僕の原点の作品です。
自分を認めるための言葉 「あなただからこそ出来ることがある」
一樹:人と比べたり、比較して、世間の物差しを通して自分を計っては、自分の至らない所に目が向いて落ち込んだりと、現在の活動に出逢うまでは随分、余計なエネルギーを使っていたように思います。
人は人、自分は自分と割り切って「自分」に目が向いた時、不思議と力が湧いてきました。「よし!自分だからこそ出来ることを探求しよう!」そう思えるようになってから、考え方が楽になりました。
「Reverse」書道と抽象画、言葉とイメージの間にあるもの
一樹:この作品が生まれるきっかけとなったのは、今から数年前、重度のパニック障害を発症したことがきっかけでした。当時、次男が生まれて間もない時期です。
僕は病の発症がきっかけで約1年半、ほぼ寝たきり生活でした。両手で数えきれいほどの、ありとあらゆる症状に悩まされ、自分の人生を終えたいほどでした。
人の力を借りなければ外出すことが困難で、そんな時に、同じように人の力を借りなければ生きられない0歳の次男を自分自身と重ねて「僕も次男と共に、人の力を借りながら、もう一度、人生を再スタートしよう」そう思いました。
藍染の藍で染めた大きな円の中に、金色に輝く二つの円。それは、僕の魂と、次男の魂。二つの魂の出逢いと、病との出逢いが、Reverse(再生・復活)誕生のきっかけとなりました。
今では、抽象画の代表作となっています。
書道で使われるいい言葉は、人生に向き合った先人たちからの贈り物
四字熟語として、わたしたちの生活に「のこり続けている」言葉は、理由があります。生活のなかで立ち現れて、ひとの心と現実との関わり合いを映していて、多くの人に共感されるからこそ、かたり継がれているのです。
自分の心に響いた語を調べてみると「あ、昔の人も自分と同じように感じていたんだ」と思えます。真剣に、自分の生き方と向き合ったからこそ、出会える語句があるのです。
自分が発している言葉は、多くの人の営みの中にあることを、誇りに思いましょう。